
− 平和
原水禁世界大会報告(8)
忘れてはいけない67年前
なんぶ支部 なかよし分会(西二なかよし保育園)
西藤 梓
今回、初めて原水禁世界大会に参加をさせてもらえて本当に良かったと感じられる3日間でした。私自身、小学校の頃から広島・長崎におこった原爆について深く興味があり原爆投下された後の写真やドキュンメンタリーをテレビでよく見ていていつか自分の足で行き自分の目で感じたいと思っていました。だから原水禁に参加できると聞いてやっと小さい頃から知りたかった67年前の歴史を自分で勉強できるのだと嬉しい気持ちでした。
1日目で私が印象に残った話があり、青年交流会時に被爆体験ということで原爆を投下される数分前の様子や落とされた後の生々しい話を聞くことができました。自分が思っていた話よりも壮絶で、「今まであった幸せも一つの核兵器が落とされたことで、町も消え、友人も消え、ただ自分ばかりが残ってしまったことがとても辛かった!」という状況を聞いていて私たちも胸が苦しくなりました。自分がもしその立場だったらどうしただろうか?体験者の方も言っていたがきっと将来なんて考えもせず死を考えただろうなと思ってしまいました。そして原爆がおきてから67年が経とうとすると同時に、原爆を体験した人たちが高齢化してきていて、体験をいざ語るにも体力がなく話すのも大変などと語り継ぐ方々が減少し、知らなければならない歴史が時代と共に薄れてきている現状が出てきてしまっている。この67年間、原爆を落とされたことで亡くなってしまったり、身体や心に大きな傷を負って苦しい思いをしてきた人、多くの人が苦しんだ67年間でもあるのでその歴史を語る人が途絶えてしまうという事にならない為にも未来を支える若い世代が語り継ぐばんだと私は思います。もうひとつ私が心に深く感じた話があります。参加をされた方からの感想として男子高校生の一人が「高校生の中には国がやっていることを間違っていると分かっているひとがいない。そして世間の話などを真剣に語りあえる友だちはいるのか?でもそうではないと思う」こうやって若いながらにも原爆の事、未来のことを考えている人が一人でもいることが嬉しく思い、私たちもこれからを頑張っていかなければと勇気をもらいました。
広島に行って私が1番衝撃を受けたのが「広島平和記念資料館」での1枚1枚の写真・パネル・模型が当時の様子を物語っていて実際に自分が被爆にあった気持ちになりました。1枚ずつ見ていくなかで投下される前と後では全く風景や人の様子が変わっていて、暑くて水を飲もうと多くの人が水を求めて歩き回る1枚や今遊んでいただろうと思われる子どもの三輪車も焼け焦げていたりと大人はもちろん子どもはもっと苦しい思いをしたんだろうと見回るうちに胸が苦しくなりました。本館に行くと遺品が語るかのように焼け焦げた女子学生の夏服や曲がるはずのない鉄扉が爆風で折れ曲がったりと自分の目で見ているが嘘か本当か分からない気持ちにもなってしまう程、衝撃的であった。資料館から出た後は言葉がでなかったです。被爆体験の話を聞いたあとの観覧だったのでこの暑い日にいきなり原爆を落とされ、周りには皮膚が解けて誰が誰だか分からないほど重度の怪我を負う人や被爆にあってないと思っていても後から発症して苦しんだりと人間が作ったものでなぜ人間が苦しまなければならないのか。今回の参加を機に私は改めて戦争はもちろん核がない世界にしていかなければならないと思いました。日本だけでなく世界各国で核兵器をなくす運動が行われていて、人の手で作られているのだから世界中の一人ひとりが「なくせ」「いらない」という気持ちを作っていく運動が今、必要だと私は思う。最後に青年交流会の際に全体に3つの質問がされ「67年前、自分だけが8月6日に原爆を落とすことを知っていたらどうするか?」「67年後の8月6日にあなたは広島で被爆(亡くなった人も含め)にあった人たちに何ができるのか?」
「死んでしまった人たちに私たちは何ができるか?」この質問に私は答えが出ませんでした。大事な人に知らせる、軍に知らせて止めさせるなどありきたりな言葉しか浮かびませんでした。その時、答えではないけども語られた言葉が「一人ひとりがどこでどのようにして亡くなったのかを知ること。また死者に対する思いで、昔の人がどんなめにあって辛かったかを思ってあげることが私たちに唯一できることである」この言葉が胸に響きました。今、自分たちにできることが一つでもあるのならまずはできることを実践し、未来へと残してあげることが私たちにできる役割なんだと身をもって感じました。ぜひ多くの人に耳からの情報でなく自分の目で原爆という忘れてはならない歴史を体験してほしいと原水禁に参加して思うことができました。3日間、原水禁を通じて多くの人と関わりあえ、そして自分の人生の思い出に残る参加になったなと思います。